沿革
貞和元年(1345年=南北朝時代)相模国・石橋山の戦いで敗れた源頼朝を助けた一人、飯田五郎家義に発し、
現在でも歓喜院に隣接している飯田家の菩提寺として永乗法印が開いたとされています。
その痕跡として昭和37年3月、寺の墓地東側の旧道復旧工事中に、用水堀から貞和6年(1350年)二月銘の
阿弥陀三尊供養碑が発見されました。
永乗法印の逆修(生前に死後の供養をすること)供養と記されています。
正式名称は「無量山 歓喜院 観音寺」
京都東山の「智積院」を本山とする真言宗智山派に属しています。
開山以来、ほとんど無住職の寺と考えられていましたが、平成4年、本寺である安行密蔵院で古い過去帳が見つかり、
それによると永乗法印のあと代々住職が寺を継いでおり、第24代住職の法印直純(享和3年=1803年入寂)
まで絶えることなく続き、その間歴代住職が新堀村の開発に尽力したことが伝えられています。
法印直純の入寂後、しばらく無住職が続いていましたが、大正4年(1915年)千葉県佐倉市の出身である
榊原盛輪が第25世住職として迎えられて以来、現在まで続いており、現住職 榊原秀明で27代目、
副住職 榊原 正蔵と共に現在の歓喜院を支えています。
歓喜院の本堂は明治8年(1875)に焼けてしまい、その後、長い間仮の堂屋が続いていましたが1940年代に
東京 稲村の普門院の本堂を再建するため取り壊すという話をきいた当時の世話人が古い本堂を買取り、歓喜院に
移設することを決めました。
普門院さんからのお古といったところになりますので少々年季が入っているようにも見えますが、ただ、
正面の欄間はとても素晴らしく、当時のお世話人もこの欄間に魅せられ買い取ることを決めたそうです。
寺の本尊は室町時代(約600年前)に作られた青銅製の十一面観音。正面の厨子内に鎮座していますが、
秘仏の為直接拝むことは叶いません。そのかわり、本堂内に十一面観音様の絵が掲げられています。
こちらの作品は現在の副住職の実父 工藤順次の作品であり、境内にほかにも多数の作品がございます。